こんにちは。
心理カウンセラーの望月奏良(もちづきそら)です。
私は今、
自分も家族も心の底から笑い合える
しあわせ循環カウンセリング
を提供しています。
実は心理カウンセラーになる前から管理栄養士として
24年間活躍していて、相談件数は5000件を超えます。
その経験も活かしつつ、今は心理カウンセラーとして
多くの人のお話を聴き、安心感へと導いています。
ここでは私が小さい頃から今までのストーリーをお伝えします。
小さい頃からとても感受性が強く、敏感で
幼少期から学生まで友達ができず、とても生きづらさを感じていました。
大人になってからもその繊細さゆえ
全てが悪循環となり、最悪な状態に陥ります。
幸い子どもの不登校をきっかけに
私が小さい頃にはまだ知られていなかったHSPについて
知ることになります。
HSPを知ることで私の人生は劇的に好転しました。
読みながら私もこんなことあったな~とか
こういう思いしたよな~とか感じてもらえたらいいなと思っています。
そして、私に対して興味を持ってもらったり
お話してみたいなと思ってもらえたらなおいいなと思っています。
では、早速はじめましょう♪
感受性が強く、親の顔色に敏感な幼少期
私は3人兄弟の長女です。
気がついたときには
「お姉ちゃんなんだからしっかりしてね!」
と言われていました。
その頃から
ちゃんとしなきゃ!
しっかりしなきゃ!
と思っていたのだと思います。
感受性が豊かなので
お父さんやお母さんの機嫌が悪いときは
すぐに察知してしまいます。
怒られたくないから
嫌われたくないから
たたかれたくないから
お父さんやお母さんが心地よい言葉を言ったり
一生懸命いい子でいようとしていました。
妹や弟が好きなおもちゃを買ってもらっているときも
私は安いおもちゃを選んでいました。
幼稚園のお友達が履いていたビニールのカシャカシャした
アニメのキャラクターのくつも欲しくても欲しいと言えませんでした。
今考えると、子どもの素直さがなく
ちょっとひねくれた子どもでした。
いつも笑顔でいなさいと言われた小学時代
大人の顔色ばかりうかがっている
子どもらしく素直さがなかった私は
お母さんから見ると変わった子だったようです。
いつも
「普通でいなさい」
「いつも笑顔でいなさい」
と言われていました。
普通ってどんな子?
正直、今でもお母さんがどんな子でいてほしかったのか
わかりません。
でも、周りの子と比べて
自分が変なんだなというのは感じていました。
なかなかお友達ができない。
クラスの子といても
なんだか距離があるような気がする。
いつもそれは感じていました。
感受性が強く、母の「外で遊んできなさい」という言葉に振り回される
感受性が強いので、お友達の気持ちを察したり
周りの空気を感じるのも敏感だったのだと思います。
お友達と遊びたくても遊べなかった私は
いつも本を読んだりしていました。
でも、家で本を読んでいると
お母さんに
「外で遊んできなさい」
と追い出されていました。
仕方がないのでちょっと離れたところにある
小高い丘まで歩いていき、寝転がって空を見ながら
空想していました。
ここまで書いて思いましたが、十分、変わった子ですね(笑)
いつも楽しそうに遊んでいるクラスの子達を見て
あんなふうに楽しそうになれたらな~と憧れていました。
自分の価値について考え始めた中学時代
中学生になると
さらに友達ができず
クラスでも浮いている感じがしていました。
毎日繰り返される同じことに
退屈さとどうしようもない焦りのようなものを
感じていました。
この頃から
私は何で生きているのだろう?
いる意味はあるのだろうか?
など、考え始めるようになりました。
勉強はそこそこできました。
部活も親に言われてソフトボールをしていました。
本当は吹奏楽部に入りたかったのですが
親に「吹奏楽部に入りたい」と言ったけれど
反対されて入れなかったのです。
実は妹は吹奏楽部に入れました。
その時に「なんで私はだめだったのだろう」と
深く落ち込みました。
妹はずっと両親に可愛がられていました。
できないこともいっぱいありましたが
子どもらしく素直な子でした。
できないことも今考えれば愛嬌だったのかもしれません。
自分はだめなんだ・・・
この頃からどんどん自己否定に入っていったように思います。
県下有数の進学校へ進んだものの友達とうまく接することができない高校時代
中学の先生には合格は五分五分だと言われた公立高校に無事に合格。
高校生になった私は
念願だった吹奏楽部に入りました。
音感も経験もない私は
努力でなんとかみんなについていっていました。
ここでも人間関係に苦労します。
仲良く一緒に話している気がするけれど
でも、私のいないところで違う話で盛り上がっていたりして
後日「え、私その話聞いてない」ってことは
よくありました。
友達はそんなこと全然気にしていないけれど
私はそういう小さなことがとても気になりました。
友達は何気なく言った言葉を
とても深刻に受け止めてしまい
ぐるぐると考えたり
自分が言ってしまったことも
あとから「あれでよかったかな?」と
不安に思うことも多かったです。
高校時代で一番大きな出来事は小さな頃からの夢をあきらめたことでした
本が好きだった私は
ずっと童話作家になりたいと思っていました。
童話作家になって
読んでくれた人の気持ちを楽しくさせたい
そう思っていました。
なので、大学は児童文学を学べるところに行きたいと
ずっと思っていたのです。
高3になって
親に「資格をとったらどう?」と言われました。
母は看護師でした。
看護師の資格があるから
若いときは父よりも高給取りだったし
子育てで一度は職を離れたけれど
そのときは看護師としてとてもいい条件で
働いていました。
私は血を見るのが苦手なので
看護師は無理だと思いました。
それから必死になって私がとれる資格について
調べることになりました。
ずっとやりたいと思ってきた夢がある。
そのことは両親も知っていました。
でも、資格をとることを言ってきたということは・・・
などなど、いろいろなことを考えたように思います。
悩んだ末、
管理栄養士の資格を目指すことにしました。
結局、文系だった私は
高3の夏に国公立の生活科学系の大学へ行くため
理転しました。
苦手な数学や理科を勉強し
歴史を勉強する時間がないため
地理を勉強し始めました。
当然、模試ではすべてE判定。
焦りも不安もとても大きかったです。
だから、当時は認めることはできませんでしたが
相当努力をしたと思います。
親が希望した国公立大学には受かりませんでしたが
自宅から通える大学になんとか合格することができました。
夢をあきらめ、忙しくすることで自分の気持ちを押し殺し、迷宮入りする大学時代
無事に大学に受かることができた私は
花の女子大学生になりました。
実は入学したのは地域でも有数なお嬢様学校。
本当なら花の女子大生だったと思います。
でも、私はそんな気持ちではありませんでした。
夢をあきらめた自分。
両親と暮らすのもしんどくなっていました。
自分自身がわからない
なぜここにいるのか?
なぜ生きているのか?
もういなくなりたい
消えてしまいたい
そんな気持ちでいました。
その気持ちをかき消すため
超多忙な毎日を送ることになります。
大学は家から往復5時間かかるところにありました。
資格をとらなくてはいけないので
授業もたくさんありました。
バイトを3つかけもちし
市がやっているボランティアサークルにも所属していました。
毎日、とても忙しく
考える時間もなさそうでしたが
その中でもずっといろいろなことを考えていました。
どこへ行っても居場所がないような
自分だけ浮いているような
そんな感じがずっとありました。
人の顔色をうかがったり
周りの空気を読んで合わせたりしていると
どんどんと自分というものがわからなくなっていきました。
大学を卒業し、社会人になり、やっと息ができるような気がしました
大学を無事卒業した私は
自宅から通えない食品会社に就職しました。
初めての一人暮らし。
やっと息ができる気がしました。
管理栄養士の試験にも無事に合格し
新しい生活を始めました。
この頃から大学の頃に知り合ったサークルの先輩と
付き合うようになりました。
ただ、最初は遠距離恋愛でした。
普段は電話をしながら
お互いの家をたまに行ったり来たりしているうちに
結婚することになったので
最初の転職をしました。
私は結婚してもどうしても仕事を続けたくて
結婚前に彼の住む土地へ行って
今度は福祉施設の管理栄養士として
働くことにしました。
両親同居の新婚生活にのしかかる残業の嵐に耐えられず
就職して3か月
施設内の給食施設が委託業者に任されることになり
管理栄養士だった私だけ施設側に残され
あとの先輩やパートさんは委託業者に
移籍することになってしまいました。
委託業者の仕事ぶりはめちゃくちゃで
時間通りに給食を出すのも難しくなり
仕込みなども残業しないとできない状態になりました。
割り切って私は帰ってもよかったのだと思いますが
それができず、ずるずるとその悪い環境に飲み込まれていきました。
そんな中、結婚をし
彼の両親と一緒に暮らし始めた私は
遅くにしか帰れない自分を責めるようになり
それが辛くなって、その福祉施設を辞めることに。
でも、仕事自体を辞めることはできず
すぐ次に転職しました。
その転職がまた私を苦しめることになったのです。
早すぎた予想外の妊娠、私は産休すらもらえないの?という絶望
転職して早く帰れるようになった私は
少し落ち着いてきました。
仕事にも慣れ、ここでならうまくやっていけそうかなと思ってきた頃に
妊娠がわかりました。
主人は早く子どもが欲しいと言っていましたが
私は転職したばかりだったので
もう少し後がいいなと思っていた矢先でした。
事務長にこのことを告げたら
「管理栄養士に産休は前例がないから、できないかもしれない」
と言われました。
現にそのとき産休中の看護師さんがいました。
なので、私もとれるものだと思っていたのです。
これもとてもショックでしたが
その後、つわりがひどくなり
それどころではなくなりました。
食べれない、飲めない、辛いつわりで毎日産婦人科の暗くて寒い部屋で点滴されていました
食べ物はもちろん水さえ飲めなくなりました。
始終気持ちが悪く、本当にもう死んでしまいたいと
毎日思っていました。
「子どもができてうれしい」と思えなかった私への罰なのかなと
思っていました。
毎日仕事を終えて、産婦人科に行き
暗くて寒い部屋で点滴をしてもらいながら
何でこんな思いをしているのだろうと思っていました。
6カ月を過ぎた頃
ようやく辛いつわりが終わりました。
やれやれと思ったとたん
今度はカンジタ炎になり、ものすごいかゆみと闘うことになりました。
産婦人科の先生に相談しても塗り薬を処方してくれるだけで
これが何かもわからない。治る気配は一向になく
里帰りして転院するまで苦しみました。
転院先では膣剤を入れてくれてすぐに治りました。
あの苦しい3カ月は何だったのだろうと今でも思います。
子どもに泣かれると「私が悪いんだ」とどんどん自分を責めていきました
何とか無事に出産してお母さんになりました。
でも、毎日が不安でした。
初めての子育て。
あまりお昼寝をしない子で
よく泣く子でした。
子どもに泣かれると
自分が責められているというか
私が悪いんだと思ってしまい
いたたまれないというか
どうしようもない気持ちが
どんどんと襲ってきました。
ずっと子どもを抱っこしているので
手は腱鞘炎になり、ひどい寝不足のせいで
思考もどんどんと深みにはまっていってしまいました。
ようやく仕事に復帰した私に待っていたのは同僚の無視、仕事放棄でした
事務長にいろいろ言われはしたものの
看護師さんよりは短くはなりましたが
産休をもらうことができ
仕事に復帰することになりました。
仕事に戻ってはみたものの
独身の同僚の理解を得られず
無視されるようになってしまいました。
それは日に日にひどくなり
ついには私が出勤する日は
私と一緒の空間にいるのも嫌になったのか
同僚は調理場に逃げてしまい
仕事を放棄するようになりました。
私はまずなぜなんだろうと考え始めました。
何か嫌なことを言ってしまったかな?
どうしたら前みたいにうまくやっていけるかな?
ぐるぐる考えても状況はどんどんひどくなり
私は仕事に行こうとすると胃がきりきりと痛み
うつ症状が出るようになってしまいました。
いろいろと自分のできることはやってみましたが
うまくはいかず、結局は退職することにしました。
繰り返す転職と繰り返す転院により自己嫌悪、自己否定がMAXに
両親との同居や子育てが大変になり
フルタイムで働くのがしんどくなった私は
パートに転職し、精神科にも通い始めました。
今考えれば仕事を辞めてゆっくりすればよかったのだと思いますが
何かをやっていないと不安で仕方がなかったのです。
通い始めた精神科では短い診察とカウンセリングを受けていました。
もともと話をするのが苦手な私は
思っていることをうまく言葉にできず
心のモヤモヤがはれることはありませんでした。
その後もいろいろな環境の変化により
職を転々とし、そのたびにどんどんと疲弊していきました。
行っていた精神科も合わないと転院を繰り返します。
自分の存在がどうでもよくなり
投げやりになり、義両親に言われる言葉が頭から離れず
ぐるぐると考え、どんどん自分が嫌になっていきました。
子育てもうまくいかず
子ども達は私ではなくおばあちゃんになついていました。
そんな子ども達を可愛いと思えず
どんどん自己嫌悪に陥っていきます。
人間関係がこじれ、もともと自信がなかったのですが
ことごとく自己否定に入り、とうとう自死を決意します。
それを察した主人は
そのとき通っていた精神科の先生から
入院施設のある病院に紹介状を書いてもらい
私は無理やり病院に連れていかれました。
あと1時間遅かったら私はこの世にはいませんでした
その日は朝から微熱があり
もう仕事に行くのは難しいなと
このまま死のうと思っていたのです。
初診で診察を受けていましたが
その先生がとても怖く感じられ
何度も診察室から抜け出しました。
最後は待合室で主人に「殺して」と叫んだため拘束され、
そのまま隔離病棟に拘束入院となりました。
主人が病院に連れていくのがあと1時間遅かったら
私はもうこの世にはいなかったと思います。
3か月の入院から戻った私は
ようやく仕事から解放されました。
少しずつ家事と子育てをしながら
ゆっくりとした生活を始めました。
子どもの不登校からHSPを知る、そこから変化が起こり始めました
少し穏やかな生活になったと思いきや
下の子が中学にあがった6月
突然気持ちが悪い、お腹が痛いと言って
学校を休むようになってきました。
病院へ連れていき
一通り検査をしてもらいましたが
体の異常はないということでした。
でも、頭が痛い、気持ち悪い、お腹が痛いという症状は変わらず
朝も起きれず、1日中寝ている状態でした。
総合病院にも紹介してもらい
そこでも検査をしてもらいましたが
原因はわからず、結局月1回の診察とカウンセリングを
してもらうことにしました。
学校の先生からも頻繁に呼び出されて話し合いをし、
すすめられた病院にもいくつも行きました。
不登校の親の会があればそこにも参加し
市の教育センターにも相談に行きました。
いろいろなことをしても、改善することはなく
ただ月日が過ぎていくばかりでした。
あるとき、市の講演会で
明橋 大二先生がいらっしゃいました。
私は主人と一緒に参加して
最後の質疑応答で質問をさせていただきました。
その時に先生から
「もしかしてあなたのお子さんはHSCかもしれませんね」と
言われました。
それが私とHSC、HSPとの出会いでした。
HSPを知ったことで未来に希望が見え始めました
それからHSC、HSPについて学び始め、知識が増えると
今までのいろいろな苦しさ、辛さが少しずつ溶けていくような
感覚になりました。
興味のあったアドラー心理学を手始めに
心理学を本格的に学び始めました。
心理学を学ぶことにより
なぜ今まで私が苦しかったのか?
生きづらさの原因はなんだったのか?
少しずつ見えてくるようになりました。
そのうち、カウンセラーになり
私のように小さなころから生きづらさを抱え
今も辛い思いをしている人を支えていきたい
本来の笑顔を取り戻すお手伝いがしたいと
思うようになりました。
私が伝えたいたったひとつのこと、
それは決してあきらめないこと
約40年間、ずっと苦しい思いを抱えてきたわけなのですが
ある日、たったひとつ、私にできていることに気がついたのです。
決してあきらめないこと。
私は幸せになりたかったのです。
どんなに苦しくても辛くても
辛すぎて泣けなくても
いつも無理して幸せそうに笑顔を作っていても
私は幸せになることをあきらめられなかったのです。
そこに気がつくまでに莫大な時間がかかりました。
でも、だからこそ今、希望の光にたどり着けたのではないかと
思います。
もし、私が
本当の意味で寄り添うカウンセラーの人にもっと早く出逢えていれば
もっと私を丸ごと受け止めてくれるカウンセラーの人に出逢えていれば
もう少し早くこのことに気がつくことができたような気がしています。
だから、私はそんなカウンセラーになりたい。
辛いときにそっとあたたかく包んでくれる太陽のような
そこにいるだけで安心できるひだまりのような
そんな人であなたと一緒にいたいのです。
「笑顔でいなさい」に苦しめられた私がようやくしあわせを手に入れました
私が本当に心の底から笑えるようになったのは
長い人生から見てまだ最近かもしれません。
子どもの頃に母に言われていた
「笑顔でいなさい」
今考えるとその言葉に忠実に生きてきたように思います。
どんな時でも笑顔でいる。
そう決めていました。
どんなに辛くてもう今日は笑えないと思っていても
鏡の前で、「まだ大丈夫、まだ笑えるから」と自分に言い聞かせていました。
人はそれを見て
私は悩みがなく、ストレスもなく
幸せな人だと思っていました。
それでいいと思っていたのです。
でも、そうじゃなかった。本当は辛かった。
そのことに気がついたとき、私は初めて自分のことを受け入れることができ
本当の意味で幸せになれたと思いました。
今までのいろいろなしがらみから解放されて
心の底から笑えるようになった時
私が心の底から笑えることが
私にとってどんなに大切なことなのか
ようやくわかりました。
その瞬間、「笑顔が素敵ですね」と言ってもらえることが
最高の褒め言葉に変わったのです。
私が本当に創り出したい世界は笑顔あふれるひかり輝く世界です
人は誰でも悩むし、苦しみます。
でも、そんなとき
誰かが話を聴いてくれたり
そばにいてくれるだけで
また明日1歩前に進もうと思えるのではないでしょうか?
笑顔は人を癒し、元気づけ、幸せにしてくれます。
でも、昔の私のように
無理して笑っていると自分を傷つけてしまいます。
本当の意味で心の底から笑えるようになったら
自分だけではなく、周りの人も幸せにすることができます。
もし、私と一緒にいて、その人が笑ってくれたら
その人の周りの人も笑ってくれて
その笑顔が伝染して争いごとのない幸せな
笑顔あふれるひかり輝く世界を創り出せると思っています。
私があふれる笑顔で生きることにより
そのひかり輝く世界を創り出していきたいのです。
最後に
ここまで私の長いストーリーをお読みいただき
ありがとうございました。
何か感じることはありましたか?
もし、感じることがあったら
ぜひ私とお話ししましょう。
その中であなたに必要であれば
自分も家族も心の底から笑い合える
しあわせ循環カウンセリング
についてもお伝えできればいいなと思っています。
私はこれからもどんどんと成長し
このストーリーの続きを紡いでいきます。
楽しみにしていてください。